昨日高田渡さんの「ブラザー軒」で戦争のことをとりあげたので、戦争に関心がいってます。
著者の城山三郎さんは、戦争体験を書き残したいという強い願望から作家になったそうです。城山三郎といと基本的には経済小説というイメージです。。。が、本人はあるいは戦争もののほうが自分の文学だよと思っていたかもしれません。そういえば、司馬遼太郎も同じようなことが作家になるきっかけでしたね。司馬遼太郎は最終的にノモンハン事件を書きたかったそうです。
うちの母親は今年80歳になります。上野近辺に住んでいたので、東京大空襲が目の前で見えたそうです。本所のあたりの空が真っ赤になっているのを見て、それまで疎開はいやだといっていたのが、怖くて疎開したそうです。
戦争を生で語れる人がいなくなるときが怖いですね。そういう体験を残しておいたほうがいいと言ってるんですが、物書きでもないし、残さないんでしょうね。
「指揮官たちの特攻」に出てくる人たちの話も、生きていたから残せる話で、当事者がみな亡くなっていたら、曲がって伝わっているような話です。
というのは、作家の阿川弘之さんの本には、宇垣中将の最後の特攻のことが少し触れてあるんですが、全員賛成で特攻したという記述になっています。今から20年以上前の本です。当時はそういうものだと思いました。
ところが、この本で同じ状況がまったく逆になtrています。確かに表面上は全員賛成で特攻にいくんですが、それはあくまで終戦という事実を知らされていなかったからで、状況からいうとどうも途中で終戦を知ったんじゃないかと。。。もし、特攻が成功していたら、日本は最後までだまし討ちの汚名をきるところでした。本当に彼らは喜んで特攻に行ったのか?
それにしても、終戦のその日に特攻はどうなんでしょう。宇垣纏中将の行動は納得がいきません。遺族のことを考えると本当にそう思います。
特攻第一号の方も、実は「なんで自分が?」と言っていたそうで、そういうほんとうの話がこれからもどんどん表面化したほうがいいと思います。
そうでないと、また戦争が美化されるようなことがまた起こりかねないんですから。